教えのやさしい解説

大白法 467号
 
文・義・意(もん・ぎ・い)
「文」とは仏の言葉、すなわち経文(きょうもん)の面(おもて)、文相(もんそう)をいい、「義」とはその経文上(きょうもんじょう)に示された教え、道理をいいます。そして「意」とは文(もん)(ぎ)の奥底(おうでい)に存する仏の本意(ほい)をいいます。
 具体的(ぐたいてき)にいうと、「文」とは、『法華経』一部八巻(はちかん)二十八品の文相の『法華経』をいいます。
「義」とは、法華経迹門(しゃくもん)の中心は十如実相(じゅうにょじっそう)の義を説く『方便品(ほうべんぽん)』であり、本門の中心は久遠実成(じつじょう)の義を説く『寿量品』とします。迹門は十界互具(じっかいごぐ)・百界千如(せんにょ)・一念三千を説いて、九界(くかい)の衆生に仏性が存することを義とします。本門は始覚(しがく)の十界を開いて無始(むし)の十界互具・百界千如・一念三千を説いて、本仏(ほんぶつ)の寿命が無始常住であることを義とするのです。
 最後の「意」とは、『法華経』の本迹二門(にもん)が共に帰入(きにゅう)するところの本門寿量の文底(もんてい)名字(みょうじ)の妙法をいいます。
 すなわち、総本山第二十六世日寛(にちかん)上人が、『文底秘沈抄(ひちんしょう)』の中で、
「文(もん)は則(すなわ)ち一部の始終能詮(のうせん)の文字なり、義は則ち所詮(しょせん)の迹本(しゃっぽん)二門の所以(ゆえん)なり、意は則ち二門の所以皆文底に帰す、故に文底下種の妙法を以(もっ)て一部の意と名づくるなり」(大石寺版六巻抄 七十二)
と釈(しゃく)されているように、釈尊の説いた『法華経』二十八品の文、そして『法華経』の本迹二門の義は、すべて本門寿量文底に秘沈された本因(ほんにん)名字(みょうじ)の妙法に帰する故に「意の妙法」というのです。これは、仏法の一切の化導(けどう)と功徳が、すべて「意の妙法」である久遠元初文底下種の南無妙法蓮華経を根源として開かれ、そしてここに帰結(きけつ)することを教えられています。
 日蓮大聖人は、『四信五品抄(ししんごほんしょう)』に、
「妙法蓮華経の五字は経文に非(あら)ず、其(そ)の義に非ず、唯(ただ)一部の意ならくのみ」(平成新編御 一一四)
と仰せのように、御自身が末法に弘通(ぐずう)するところの妙法蓮華経の五字とは、以上の「文・義・意」の綱格(こうかく)における「意の妙法」であることを御指南されています。
 大聖人は、「文・義・意」の綱格によって、釈尊の文上(もんじょう)の『法華経』(文・義)に対する文底の大法(だいほう)(意)を明(あき)らかにし、宗祖(しゅうそ)の説く文底の大法が仏法根源の本因下種の本法(ほんぽう)であり、釈尊の説く『法華経』が文底の大法の垂迹(すいじゃく)、熟脱(じゅくだつ)の仏法であることを明(あ)かされたのです。そして、『法華経』の文義に執(と)われる者に末法衆生の即身成仏が南無妙法蓮華経に存することを教えられたのです。
 したがって、私たちは、日々(ひび)唱えるところの題目が、仏法根源の大法であることに身の福徳を感謝し、日々怠(おこた)りなく信心に励むべきでしょう。